神田川の隅田川に流入する河口部である最下流に架かる「柳橋(やなぎばし)」。
その北詰には、江戸中期から20世紀末まで栄えた花街の痕跡が残る。
橋の起源は江戸中期
当時の日本橋下柳原同朋町と対岸の浅草下平右衛門町とは渡し船で往来をしていて、その不便さから1697年(元禄10年)に架橋が許可されると、幕府の命により当時の町年寄の樽屋藤右衛門によって木橋が1698年(元禄11年)に架橋され、当初は川口出口之橋、または矢の倉橋と呼ばれていたという。
現在の柳橋の名の由来については諸説あり、
・矢の倉橋が変化したもの
・柳が並ぶ柳原堤の端にあることから
・橋のたもとに柳が1本あったことから
などが伝えられている。
船遊び、芸者遊び
かつては江戸随一の歓楽街であった両国が目と鼻の先にあり、吉原方面への渡船場でもあったことから花街として発展し、隅田川の船遊び客も多く、花街としては新橋と共に江戸東京を代表する場所となり、和初期頃までは料亭や船宿などが建ち並ぶ情緒あふれる街であった。
柳橋芸者は、遊女と違い唄や踊りで立つ事を誇りとしてプライドが高かったとも言われ、新橋演舞場や明治座にも出演して披露していたと言われている。
1999年(平成11年)に、最後の料亭「いな垣」が廃業したことで200年近くの歴史に終止符が打たれ、今は川の両岸に並ぶ屋形船の発着場がその痕跡を残している。
現役のモデルは永代橋
1887年(明治20年)に木橋から鉄橋として架け替えられるも、大正の関東大震災にて落橋してしまい、後に震災復興事業として1929年(昭和4年)に現在の鉄橋が架橋され、耐震構造に配慮して建設された橋は、永代橋のデザインを取り入れたと言われていてる。
1992年(平成4年)には、傷んだ親柱が復元され、花街にちなんで欄干にはかんざしがあしらわれ、歩道には御影石が貼られ、夜にはライトアップされるなど、橋の存在感がアップすると周囲の景観とあいまって、情緒あふれるスポットとなっている。
柳橋を詠んだ俳句
1992年(平成4年)に南側橋詰に建てられた石碑の銘板には、正岡子規氏が詠んだ俳句が2つ紹介されている。
「春の夜や女見返る柳橋」
「贅沢な人の涼みや柳橋 」
昔懐かしい街並、明治の文豪、島崎藤村が住んだ街としても知られる柳橋へ、この機会に足を運んでみてはいかがだろうか。