TOKYO BRIDGE WALK

TOKYO BRIDGE WALK Vol.49「平川橋」

江戸城の壕に架けられた数々の木橋のうち唯一現存する「平川橋(ひらかわばし)」は、皇居北側の内濠の千代田区一ツ橋一丁目から皇居東御苑に渡る平川門前に架かります。

平川は、日比谷入江に合流していた神田川下流部の古い名で、流路はのちに東回りに変更され日本橋川や外濠川となり、平川の跡は大手濠などに変わっています。

1614年(慶長19年)に初代の橋が架けられましたが、数度の改修ののち1988年(昭和63年)3月に現在の橋に架け替えられました。

台湾産ヒノキ材が使われた長さ29.7m、幅7.82mの現在の橋は、橋脚と橋台は石造りで脚桁には鉄骨が使われ、親柱の擬宝珠には、寛永や慶長などの銘が彫られています。

 

 

平川門

1635年(寛永12年)、竹橋から侵入する敵を撃退するために枡形櫓門と番所が構築され、この櫓門と高麗門、平川橋を含めた一式を平川門と呼ばれていました。

奥女中の通用門であったことから「お局御門」とも呼ばれていた平川門は、死者や罪人を運ぶので「不浄門」の別名を持ち、また、江戸城三丸の正門として、田安、一橋、清水の徳川三卿の登城口でもあり、門、枡形が現存しています。

 

 

一ツ橋

平川橋の北側の町「一ツ橋」は、西は清水濠、南は平川濠、大手濠に接し、町を横切る首都高速都心環状線の下、日本橋川には地名の由来となった「一ツ橋Vol.31で紹介)」が架かっています。

かつては神田一ツ橋と呼ばれた時代もあり、東京商科大学(現在の一橋大学)が、1933年(昭和8年)に東京都多摩地域の国立市へ移転するまではこの地に存在していました。

町には、小学館や集英社などの本社が集中していることから、出版業界ではそれら企業群のことを俗に「一ツ橋グループ」と呼び、神田古書店街で知られる神田神保町とも隣接しています。

 

 

和気清麻呂像

備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)で生まれた「和気清麻呂(わけのきよまろ)」は、769年(神護景雲三年)、道鏡が皇位をうかがった時に、宇佐八幡の信託をきき道鏡の野望を挫き、清麻呂は別部穢麻呂と改名され大隅(鹿児島)に配流されます。

天皇の死後、道鏡失脚により復帰し、光仁天皇・桓武天皇に深く信頼され、平安遷都を推進、造都に活躍しました。

平川橋の近く大手濠緑地に立つ和気清麻呂像は、1940年(昭和15年)に紀元2600年記念事業として建立された、佐藤玄々作の約4.2mのブロンズ立像で、佐藤玄々の代表的な大作として知られています。

宇佐八幡神託事件で知られる清麻呂の、堂々たる礼装姿が特徴で、楠公(楠木正成)銅像とともに文武の二忠臣を象徴しています。

また、岡山県の和気町には、生誕1250年を記念して制作された別の和気清麻呂像も存在しています。

 

 

大手町

和気清麻呂像が左手に見る日本屈指のオフィス街の大手町は、江戸城を中心とした諸大名・旗本のための武家地を、明治維新後の「東京市区改設計」において、1890年(明治23年)には陸軍省用地となっていた土地が民間に払い下げられ、日本初の本格的オフィス街の整備が始まりました。

馬場先通りに並んだ赤煉瓦のビル街は、その西欧風のたたずまいから「一丁倫敦(いっちょうロンドン)」と呼ばれ、1914年(大正3年)に東京駅が完成して以降、駅前の大型オフィスビルによる街並みは「一丁紐育(いっちょうニューヨーク)」と呼ばれました。

戦前、官公庁街であった地も現在の霞が関に移転すると、1955年(昭和30年)以降、大手町の国有地は払い下げられ、1956年(昭和31年)には地下鉄の大手町駅が誕生し、新聞社、銀行、商社、経済団体等が建ち並び、歴史的な街並みが現在まで継承され、都市観光の資源や町の魅力となっています。

 

 

日頃、何気なく渡る橋にも、毎日通る道にも、その街の歴史や風情を見に、是非この機会に、いつもの街を少し視点を変えて散策してみてはいかがでしょうか。