TOKYO BRIDGE WALK

TOKYO BRIDGE WALK Vol.8「吾妻橋」

「吾妻橋(あづまばし)」は、東京の大衆芸能の発信地であり、観光地の代表とも言える浅草と対岸の芸者街向島や業平をつなぐ都道463号線(雷門通り)の隅田川に架かる。 

西にターミナル駅の上野が控え、東には今や東京のシンボルとなったスカイツリーがそびえ立つ。 

東岸は墨田区役所やアサヒビール本社が入る墨田リバーサイド地区で、西岸には桜の名所として有名な墨田公園が北側に広がる。 

 

 

西岸橋詰の交差点には、浅草を代表するお店の一つ神谷バーがあり、浅草の中心に一番近い橋でもある。 

江戸時代、隅田川には5つの橋が架橋された、その最後の橋が吾妻橋である。 

「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所に、浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が、1769年(明和6年)江戸幕府によって許可されて架橋が決まり、工事着工から5年後の1774年(安永3年)に、長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋が完成した。 

当時は、武士以外の全ての通行人から2文ずつ通行料を取っていたようである。 

1786年(天明6年)に起きた洪水で、永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中、吾妻橋が無傷で残った事で、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったと言われている。 

 

「大川橋」から「吾妻橋」へ 

橋名は、近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことで、当初は「大川橋」と呼ばれていたが、1876年(明治9年)木製橋として最後の架け替えが行われた際に、現在の橋名である「吾妻橋」と正式に命名されている。 

説には、場所が江戸の東に位置することから町民達が「東橋」と呼ぶようになり、後に慶賀名として「吾妻」とされた説や、東岸の向島方面にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから「吾妻橋」と呼ばれるようになった説がある。 

 

 

1885年(明治18年)の大洪水で千住大橋が流され、上流から流れてきたその橋桁が橋脚に衝突し、吾妻橋も一緒に流出してしまうが、1887年(明治20年)に隅田川最初の鉄橋として再架橋されている。 

1923年(大正12年)9月1日、南関東を中心に発生した巨大地震(関東大震災)によって木製だった橋板が焼け落ちてしまが、一時的な補修の後に、1931年(昭和6年)現在の橋に架け替えられている。 

 

東京湾クルーズの出発点 

橋の西詰は、東京都観光汽船の桟橋である浅草ステーション設けられ、ここから浜離宮や日の出桟橋、大型商業施設が建ち並ぶお台場海浜公園まで水上バスが運航されている。 

 

 

歴史ある浅草の街を楽しんだ後に、隅田川を下り東京湾クルーズに出かける拠点の一つとしても著名な地点でもある。 

毎年恒例の隅田川花火大会では、多くの人が行き交う吾妻橋の両岸には、今と昔が楽しめる街がある。 

 

歴史に触れ、新たな発見を探しに出かけてみてはいかがだろうか。