TOKYO BRIDGE WALK

TOKYO BRIDGE WALK Vol.6「万世橋」

JR秋葉原駅から神田方面へ向かって歩いて行くと、その橋は見えてくる。 

日本随一の電気街秋葉原と、数多くの老舗が残る神田とを結ぶ「万世橋(まんせいばし)」は、日夜多くの人や車が行き交い賑わっている。 

 

 

徳川将軍も渡る橋 

万世橋の歴史は、現在の昌平橋と万世橋との中間に架けられた「筋違橋(すじかいばし)」に遡る。 

筋違橋は、1636年(寛永13年)加賀百万石の三代藩主・前田利常が築いた筋違見附門の付属物として架けられた。 

江戸城三十六見附の一つであった筋違見附門は、歴代将軍が上野寛永寺や日光東照宮へ参詣する際に、大手門から神田橋門を通り、下谷御成道へ向かう時に使われていた。 

1872年(明治5年)の筋違見附門の取壊しと共に筋違橋も解体されるが、翌1873年(明治6年)取壊した門の石材を再利用して、元の場所にアーチ二連の石橋が架橋された。 

当時、東京府知事であった大久保忠寛が「萬世橋(よろずよばし)」と命名したが、次第に音読みの「まんせいばし」が一般化していったと言われ、通称、眼鏡橋とも呼ばれていた。 

1873年(明治6年)に起きた洪水により上流の昌平橋は流され、1896年(明治29年)に復旧されるまで、昌平橋は現在の万世橋の位置に仮木橋として架けられていた。  

この期間は、万世橋の下流に昌平橋があったことになる。 

昌平橋が現在の位置に復旧後、仮木橋は1903年(明治36年)に新万世橋として架け替えられ、元万世橋と名を変えた上流のアーチ二連の眼鏡橋は1906年(明治39年)に撤去された。 

新万世橋は1923年(大正12年)の関東大震災で被災するも、大震災後の帝都復興事業に指定され、直ぐに復旧した。 

その後、東京地下鉄道の渡河工事に伴う水路変更もあって、一旦下流に木製仮橋として移設するが、1930年(昭和5年)に、長さ26m、幅36m、石とコンクリート混成の現在の美しいアーチ橋として架け替えられた。 

 

幻の万世橋駅 

現在の万世橋の近くには、ぞの昔、万世橋駅という幻のターミナル駅が存在していたことを知る人はもう少ない。 

 

 

万世橋駅は、ドイツ人設計技師のアドバイスのもと、東京駅と同様に建築家の辰野金吾によって、立派な赤レンガ造の駅舎が設計され、1912年(明治45年)4月に中央線が発着する東京屈指のターミナル駅として開業した。 

中央線だけでなく市電も乗り入れるターミナル駅であった万世橋駅は、神田の老舗街にも近いことから、駅前広場はいつも多くの人たちで華やかに賑わっていたようで、当時の東京の玄関口と言えば、ここ万世橋駅だったとも言われている。 

大正時代に入り、1914年(大正3年)東京駅が開業し、1923年(大正12年)におきた関東大震災によって、万世橋駅の駅舎は焼失してしまう。 

東京駅の開業により、既にターミナル駅としての役割を終えていた万世橋駅は、再建への力が注がれず、二代目駅舎は簡素な造りの建物だったようだ。 

その後、神田駅や秋葉原駅が近くに開業したこともあって、万世橋駅の存在は衰退していき、1943年(昭和18年)11月に、駅機能の休止が発表されて休止駅となった。 

駅舎部分は解体されたが、駅舎背面の高架橋部分は、関東大震災の被害や第二次世界大戦の戦火から幸いにも免れ、欧風のお洒落な赤レンガの外観は、当時のままの姿で残された。 

 

 

「交通博物館」として利用された後にリノベーションされ、2013年(平成25年)9月「マーチエキュート神田万世橋」としてレトロモダンな商業施設に生まれ変り、今では多くの旅行者が訪れる観光スポットになっている。 

昔ここに駅があった。幻の万世橋駅はどのようにして誕生し、消えていったのか。 

万世橋の歴史と現在の街並みを楽しみに、散策に出かけてみてはいかがだろうか。