JR王子駅中央口出て左手直ぐにある「音無橋(おとなしばし)」は、石神井川に架かる幅約18m、長さ約50mの橋で、王子町と滝野川町を繋ぎ多くの車と人々が行き交います。
1930年(昭和5年)、当時、谷で分断されていた飛鳥山と対岸をつなぐために石神井川に架けられた橋は、老朽化に伴い昭和63年に大改修が行われ、バルゴ二ーも増設され現在の姿となりました。
この付近は、飛鳥山の花見や滝野川の紅葉狩りで賑わう工リアで、真下の音無川親水公園との調和も図られています。
また、この美しい3連アーチの橋の歴史をひもとくと、明治から昭和初期にかけて、王子がどれほど重要な軍事・工業の拠点であったかが分ります。
江戸時代から風光明媚な行楽地として人気だった東京都北区王子の飛鳥山は、実業家・渋沢栄一が製紙工場やその関連企業を設立し、別邸を構えていたことでも知られていて、「音無橋」は飛鳥山をつなぐ橋として渋沢翁も支援したといわれています。
渋沢栄一ゆかりの地
JR王子駅中央口を出てすぐのところに、「お札がうまれる街、東京都北区」と大書した看板が掲げられていて、このまちに足を踏み入れただけで、金運が急上昇しそうで、日本の資本主義の父と呼ばれる実業家・渋沢栄一の肖像を添えた巨大1万円札のイラストも添えられている看板は、2024年度(令和6年)に渋沢翁の図柄の新紙幣が発行されるのを受け、北区と渋沢の関係団体が、公民連携で進めるイメージアッププロジェクトの一環として作成したものだそうです。
王子は渋沢ゆかりの地として、晩年の翁が、駅前に広がる「飛鳥山」に別邸を構え、ここを活動の拠点としていました。
飛鳥山公園
1872(明治5年)に定められた日本最初の公園の一つでる飛鳥山公園は、徳川八代将軍吉宗が桜を植えて、庶民の行楽地としたのが始まりとされ、今では約600本の桜が植えられていて、桜やツツジの名所として知られています。
公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部で、古くから人が住んでいたといわれ、先土器時代、縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。
西側の山すその「飛鳥の小径」には、アジサイが約1300株植えられ、公園内にある北区飛鳥山博物館、紙の博物館、渋沢史料館と見所も沢山あり、平日から多くの人で賑わっています。
王子神社
音無橋から北へ少し歩くと見えてくる大鳥居は、明治天皇が、明治元年に准勅祭社として幣帛を捧げられ、東京の鎮護と万民の平安を祈願された東京十社の一つとして知られる王子神社です。
1322年(元亨2年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を迎えて、「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたといわれ、それよって、この地は王子という地名となたとされ、神社の下を流れる石神井川もこの付近では音無川と呼ばれています。
江戸時代に入り1591年(天正19年)、徳川家康公によって朱印地二百石が寄進され、将軍家祈願所と定められると、歴代の将軍の表敬厚く、1737年(元文2年)、八代吉宗公は飛鳥山を寄進し、「王子権現」の名称と飛鳥山の花見は、江戸名所の一つとして知られるようになりました。
神社の創建当時からあると考えられ、樹齢は600年ともいわれる大イチョウは、「王子神社のイチョウ」の名称で東京都の天然記念物に指定されています。
熊野に見立てた王子の歴史
鎌倉時代後期、領主の豊島佐衛門が紀州熊野の飛鳥明神と若一王子社を遷したところから生まれたといわれ、村の名は王子、飛鳥明神が置かれた山は飛鳥山、そして王子権現と飛鳥明神の間の谷を流れる石神井川は「音無川」と名付けられ、あたり一帯を熊野になぞらえたようです。
八代将軍吉宗によって飛鳥山に桜が植えられ、谷沿いに料亭が並ぶ一大行楽地となり、滝や紅葉に彩られた渓谷は景勝の地として、広重の浮世絵にも多く描かれていて、石神井川は、いつしか音無川ではなく「滝野川」と呼ばれるようになります。
幕末になると、大砲製造のために鉄を溶かす反射炉が飛鳥山のふもとに建てられ、動力には、南西の西巣鴨から千川上水の水を引き込む水車を造られますが、明治維新で幕府は敗れ、反射炉の跡地には紡績工場が建設され、渋沢栄一も、千川上水の水を利用して抄紙会社を設立し、周辺には関連会社が置かれました。
製紙工場ができたことで、紙幣を印刷する大蔵省印刷局もこの地につくられると、王子はお札がうまれる街となったのです。
明治半ばに電車の開通で王子駅ができると、火薬や肥料などを製造する軍需工場が建設され、工業が発達し工員たちの住宅も増え、明治・大正・昭和初期と、王子が東京郊外屈指の軍都・工業地帯として発展しますが、石神井川の渓谷が交通の妨げとなりました。
谷を挟んで向かい合う王子町と滝野川町を行き来しやすくなように橋の建設が計画されると、経済界の立役者であった渋沢栄一もこれを支援したとされます。
完成した橋の名は、石神井川の通称「滝野川」から取って「滝野橋」となってもおかしくなかったのですが、いにしえの「山は飛鳥、川は音無」にちなみ「音無橋」と命名されたようです。
こうして橋の架かる渓谷には、王子のたどった歴史が刻み込まれています。
日頃、何気なく渡る橋にも、毎日通る道にも、その街の歴史や風情を見る事が出来ます。
是非この機会に、いつもの街を少し視点を変えて散策してみてはいかがでしょうか。