隅田川に架かる「蔵前橋(くらまえばし)」は、関東大震災の復興計画で現在の蔵前橋通りにあたる道路が新たに計画されたため、1927年(昭和2年)に架橋されました。
橋台部の路面の高さを高くすることができたため、橋の上部に視界を遮るものがない上路式のアーチ橋になっています。
橋が架かる以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場があり、付近に江戸幕府の米蔵があったことで「御蔵の渡し」とも呼ばれていました。
1984年(昭和59年)12月まで、橋の西詰に蔵前国技館があったので、橋上に連なる欄干には力士のモチーフがデザインされ、橋全体は米蔵をイメージした稲の籾殻を連想させる黄色に塗装され、3つの黄金のアーチが印象的なシルエットとなっています。
架橋当時としては思い切ったアーチ橋造りで注目を集めたことから、1999年(平成11年)に東京都選定歴史的建造物に選定され、2023年(令和5年)9月には、関東大震災の復興橋梁であり、バランスのとれた3連の鋼アーチ橋として歴史的に価値の高い貴重な土木遺産として、土木学会選奨土木遺産に認定されました。
浅草御蔵跡
橋の西岸、南は現在の浅草柳橋2丁目より、北は浅草蔵前3丁目にかけての神田川北側の一画に、かつては浅草御蔵が位置していました。
弘化年間(1844~1848年)のころ、敷地は約3万6000坪もあり、南北で580メートル、東西で広いところが830メートルと、東京ドームが2つは楽に入る広さを誇りました。
地租が金納となったのちは米廩、または米蔵と呼ばれ、1878年(明治11年)には、大蔵省の常平局が管理し、浅草御蔵の地に本局が置かれました。
地租が金納となった後は、いち早く蒸気精米機が取り入れられ、大規模に精米が行わるようになると、40棟近くあった米蔵は明治末年には2、3棟となり、1923年(大正12年)の関東大震災で全てが消失してしまいます。
1956年(昭和31年)10月に、江戸開都500年を記念して「浅草御蔵跡」の記念碑を、浅草南部商工観光協会が建立しました。
都立横綱町公園
橋の東側には、東京都慰霊堂や復興記念館がある場所として知られている都立横綱町公園がある。
公園は元陸軍被服本廠があった場所で、1922年(大正11年)に王子区赤羽台に移転した後、当時の東京市が買収して公園として整備されたものです。
1923年(大正12年)7月に公園の整備が開始されて間もなく、同年9月1日に関東大震災が昼食準備で火を使う正午直前に発生すると、工場や住宅が密集する下町は各所からの出火で大規模火災に発展し、炎に追われた人々が被服廠跡地が絶好の避難場所とみなして、造成中だった公園に集まってきました。
しかし、16時頃には敷地は火災に取り巻かれ、避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、巨大な火災旋風が人々を襲い炎の中に飲み込み、結果、横網町公園に避難した人だけで約3万8,000人が犠牲になったと云われています。
日頃、何気なく渡る橋にも、毎日通る道にも歴史ある風情が残っているでしょう。
是非この機会に、いつもの街を少し視点を変えて散策してみてはいかがでしょうか。