銀座1・2丁目の境界に通る銀座柳通りを新富町方面へ進むと首都高速都心環状線に架かる橋がある、それが「三吉橋(みよしばし)」である。
関東大震災の復興事業の一環として、1929年(昭和4年)12月に架橋されている。
当時ここには築地川が流れ、川筋を荷を運ぶ船や屋形船が行き交い、川を中心に人々の生活が営まれる情緒ある風景があった。
高度成長とともに川は埋立てられ高速道路が通り、今では陸橋となっている。
Y字型の三又橋
三吉橋の特徴の一つは、橋を上空から見るとY字型の三つ又になっていることで、銀座方面から三吉橋を渡ると、中央付近から左右に分かれ、左は新富町へ、右へ進むと中央区役所前を通り築地へと繋がっている。
なぜY字型の橋が架橋されたのか、以前ここに流れていた築地川は、中央区役所前で流れを東に変えるL字型の水路であったが、楓川に向って真っ直ぐに新しい連絡運河が造られる事となり、中央区役所前はT字型の水路へと変わった。
T字型の水路に変わった事で、銀座・築地・新富地区が分断されるが、その三つの地区を一本で繋ぐ為にY字型の三吉橋が架橋されたようだ。
かつては東京の名所
築地川と楓川を結ぶ連絡運河が造られる前は、中央区役所前には合引橋という橋が架かっていて築地と新富町を結んでいた。
合引橋は連絡運河が造られた事で廃橋となるが、変わって三吉橋が架橋された。
T字型の水路に変わった事で、築地川の三叉路地点となった三吉橋は、その眺めの良さと三つ又橋という珍しさが話題となり、一時代の東京の名所となった。
残念ながら、1962年(昭和37年)に築地川は埋め立てられ、高速道路が通と川辺の静けさは一転して、車の騒音へと変わってしまった。
そして、名所としての三吉橋も忘れらる事となった。
築地川
築地地区を取り囲むように流れる築地川は、江戸時代の埋立てによって造られた運河の部分とされている。
江戸時代には、物流の中心であった水運としての機能を十分に果していたが、時代の変化と共に運河や濠としてその存在意義が薄くなっていったと言われているが、明治・大正・昭和初期頃までは、水運と共に、屋形船などの舟遊びなどにも利用される情緒のある川であったとようだ。
戦後の高度成長期に入ると川は汚染が進み、川底から発生するガスの気泡が川面に溢れるようになり、川の両岸には悪臭が蔓延し、とても舟遊びのできる川ではなくなってしまったようだ。
また、一般的な川と異なり、ほとんど流れのない築地川は、満潮時には流れが逆流することで、汚染の進行は激しかったと言われている。
そして、1962年(昭和37年)の首都高速道路の建設に伴なっい埋立てが進むみ、東側部分の川筋は築地川公園へと姿を変えている。
1993年(平成5年)に改修された現在の三吉橋は、高速への転落防止柵を兼ねた欄干には、水辺の木立をイメージしたデザインが施され、橋灯には架橋当時の鈴蘭燈を採用するなど、かつてここが東京の名所であって事を思い起こすような、懐かしい情緒を感じさせる雰囲気を出している。
銀座から少し歩けば懐かしい東京の名所に出合うことができる。
この機会に足を運んでみてはいかがだろうか。