TOKYO BRIDGE WALK

TOKYO BRIDGE WALK Vol.11「常盤橋」

日本一高いビル建設が進む東京駅前、多くの高層ビルが建ち並ぶオフィス街のすぐ横に「常磐橋(ときわばし)」と「常盤橋(ときわばし)」の二つの「ときわ橋」が隣接して架かっている。

都内に残る石橋として最古とも言われる常磐橋と関東大震災の復興道路として架橋された常盤橋は、江戸、東京の発展と共に多くの人が行き交ってきた重要な橋の一つと言えるだろう。 

 

 

江戸城と街道を繋ぐ 

1590年(天正18年)河岸の石垣橋台を橋脚で結び、幅10mほどのアーチを描く堅牢な木造橋として架橋された。 

当時は、江戸と浅草を結ぶ奥州街道の起点となる要所であったことから「大橋」や「浅草口橋」と呼ばれていた。 

江戸時代に入り、町年寄の奈良屋市右衛門が改名を命ぜられ、自宅に寄宿していた浪人から「常盤」の名を進言され献上したとされ、「金葉集」の大夫典侍の歌「色かへぬ松によそへて東路の常盤のはしにかかる藤波」に由来し、松の常緑を徳川家の繁栄に掛けたとする説がある。 

1629年(寛永6年)江戸城外郭工事により、橋の前に「常盤橋門」が設置され、田安門、神田橋門、半蔵門、外桜田門と並び、江戸城の出入口である江戸五口の一つとなった。 

 

明治期の大改修 

明治の文明開化を迎えた東京では、万世橋、鍛冶橋、呉服橋など、外郭に設けられた木造橋を石橋に架け替える再整備事業が盛んに行われる中で、常盤橋も小石川門枡形の石材を用いて1877年(明治10年)に改架される。 

大理石の八角柱を親柱に、手摺柵には唐草模様が施され、当時としては先駆的な意匠をもった近代的な石橋となった。 

 

 

関東大震災からの復興 

1923年(大正12年)に発生した関東大震災により常盤橋も甚大な被害を受ける。 

後に、発布された震災復興の区画整理計画に対して、東京市が中心となった市民運動が起こり、内務省復興局へ保存の陳情がなされた。 

1933年(昭和8年)までに渋沢青淵翁記念会(現:公益財団法人渋沢栄一記念財団)の尽力もあり常盤橋は復旧し、常盤橋門跡も含めた一帯は公園として整備される事となる。 

明治期に架橋された日本橋川筋の多くの石橋が、都市開発や不等沈下により改架、消失するなか、常盤橋は市民の保存運動に支えられ、現代に遺された橋と言えるだろう。 

同時期の1926年(昭和元年)に震災復興道路として常盤橋の下流に新たな常盤橋が架橋された事で、この頃から旧常盤橋は「常磐橋」と表されるようになったという。 

 

 

「磐」と「盤」の字の違いもさることながらその用途も異なり、震災復興初期橋として、先駆けて架橋された常盤橋は、車道として現在でも車の往来が絶えない重要な道路となった。 

一方、常磐橋は歩行者専用として一帯は憩いの場となり、のどかな空気が漂わせてきた。 

高度成長期には上空を首都高速が走り、風景も一変するが、明治初頭に架橋された唯一都内に現存する石橋として、当時の架橋技術と意匠を伝える歴史的価値は高いと言えるだろう。 

 

先人の技術が未来の匠へ 

今も記憶に新しい、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災によって、損傷を受けた常磐橋は通行禁止となり、2013年(平成25年)より改修工事が始まった。 

この改修工事は、ただ修理するだけの工事では無く、江戸、明治初期の架橋技術の痕跡を探るべく、一旦、全ての石材を一つ一つ慎重に取り除き、基礎部の構造調査、部材一点ごとの寸法、加工の痕跡が記録される。 

 

修復工事中の常磐橋

 

損傷の激しい部材は安全確保のために新しい部材に置き換えられるようだが、当時の部材を可能な限り修理し、使い続けることを原則としているという。 

下部から上部へと順次行われる復旧作業は、橋台の敷石、高欄、親柱の再現まで、今も慎重に進められている。 

最先端技術を用いた多くの高層ビル建設が進む東京駅のすぐ横で、常磐橋の改修工事から先人の技術と志に触れる事で、知られざる文明開化の歴史が今後明らかになるかもしれない。