明治神宮外苑の一角に架かる、外苑西通りを跨ぎ立体交差する「外苑橋(がいえんばし)」は、1928年(昭和3年)に架橋されました。
関東大震災後の復興局によって都市計画が見直される中、日本の最初期とされる立体交差する橋は、径間約18m、脚高約4.9m、左右の側径間をゲルバー桁とした門型ラーメン橋の構造で、東京市によって神田川に架けられた「御茶ノ水橋」の先行事例として架橋されたとも言われています。
周辺には、国立競技場や明治神宮球場といったスポーツ施設が建ち並び、橋の西にあるJR千駄ヶ谷駅の北側には新宿御苑の緑が広がっています。
JRと首都高速
橋の北側には、東京を東西に結ぶ大動脈とも言える、JR総武・中央快速線と首都高速4号新宿線が並走する。
東京~高尾間を24駅で結ぶJR中央快速線は、沿線に新宿副都心等のビジネス街と繁華街に、学校も多く通勤通学の重要路線の一つです。
首都高速都心環状線、三宅坂JCTから伸びる首都高速4号新宿線は、新宿出入口と代々木PAの間に参宮橋カーブと呼ばれる首都高速の中でも有名な急カーブがあり、90度に曲がる道は前方の見通しが悪いので、走行の際は制限速度に注意してほしい。
西新宿JCTから中央自動車道入口の高井戸ICまでは、国道20号(甲州街道)と並走する東京を西へ向かう重要な路線です。
明治神宮外苑アイススケート場
橋の東詰に建つ「明治神宮外苑アイススケート場」は、1963年(昭和38年)の神宮プール増改築工事に併せて、アイススケート場に転用できる室内プールを建設したのが始まりと言われます。
1994年(平成6年)、スライド式大屋根が撤去され13mの天井高を誇るスケート場となり、輻射熱をカットするカナダ製のシーリングカーテンが導入されました。
2000年(平成12年)、選手育成を目的としてリンクの大きさが30m×60mに拡張され、国際規格のリンクへと生まれ変わり、2018年には氷をイメージした現在の外観にリニューアルされました。
国立能楽堂
能や狂言は、明治維新による徳川幕府崩壊によって、それまでの安定した地位や収入を失うと、廃業を余儀なくされる演者も現れ、貴重な面や装束などが売却され、海外へ流出する事態となりました。
しかし、新政府の有力者や華族、財閥などの支援を受け、新しい試みとしてそれまで屋外で行われていた上演を屋内でも可能にするために、室内に屋根のある能舞台を収める様式が生まれ、これが現在の能楽堂というかたちに繋がっています。
橋の西側、渋谷区千駄ヶ谷に建つ「国立能楽堂」は、その名の通り能楽専門の公演場で、1964年(昭和39年)に国立劇場を建設する際、施設内に能楽堂を設置する計画が上がりましたが、舞台形式が特殊であるため独自の施設が必要とされ計画が無くなります。
しかし、能楽関係者や有識者の強い要望もあり、1974年(昭和49年)に芸術文化専門調査会に能楽部門を置いて調査した結果、国立の能楽堂を設置することが必要とされ、1976年(昭和51年)に国立能楽堂設立準備調査会が発足し、用地は千駄ヶ谷の東京通産局跡地に決まり、1983年(昭和58年)9月に開場しました。
VICTOR STUDIO
外苑西通りを橋から南へ少し歩くと見えてくる「VICTOR STUDIO(ビクタースタジオ)」は、1940年(昭和15年)に、東京・築地に開設された後に、1969年(昭和44年)に、現在の東京・千駄ヶ谷に移転し、約半世紀にわたり多くの名盤を生み出してきた、日本を代表する音楽スタジオです。
ビクタースタジオは、Genelecのスタジオ・モニターを日本で最初に導入した商用スタジオでもあり、1990年(平成2年)、新しいリファレンス・スピーカーとして導入された1035Aを皮切りに、S30、1031A、1033Aなど、すべての部屋にGenelecのスタジオ・モニターが導入されています。
日頃、何気なく渡る橋にも、毎日通る道にも歴史ある風情が残っているでしょう。
是非この機会に、いつもの街を少し視点を変えて散策してみてはいかがでしょうか。