日本を代表する金融街の日本橋兜町。
江戸時代から栄えた、下町気質が息づく町、粋でいなせな門前仲町とを結ぶ「永代橋(えいたいばし)」。
重量感あふれるシンプルなアーチ型は、墨田川に架かる橋の中でも、ひときわ優美な存在感を醸し出している。
赤穂浪士が討ち入りの帰りに渡った事でも知られる永代橋の歴史に触れてみよう。
架橋は江戸期
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝う記念事業として、関東郡代であった伊奈忠順指導のもと、1698年(元禄11年)に架橋されている。
架橋には上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされ、場所は当時の隅田川の最下流河口のほぼ江戸湊の外港だったところで、現在の位置よりも100mほど上流になる。
付近には船手番所も置かれるほど、多くの船の通行もあり、通行を阻害しないように造られた橋は、満潮時でも橋脚は水面から3 m以上、長さ約200 m、幅約6 mと、当時最大規模の大橋となった。
橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったとも記録が残っている。
名称は、架橋された江戸対岸に元あった中洲「永代島」に因むとも言われ、江戸幕府が末永く代々続くようにという後から附けられた慶賀名という説もある。
文化年間の落橋事故
1719年(享保4年)財政が窮乏した江戸幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決定するが、町民衆の嘆願により、橋梁維持諸経費を町方が負担することを条件に存続が許された。
町方は、橋の通行料を取り、橋詰には市場を開いて収益を上げるなど費用を工面して維持に務めていたが、1807年(文化4年)深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼(深川祭)が行われ、久しぶりの祭礼には江戸市中から多くの群衆が橋を渡って深川に押し寄せた。
橋は、群衆の重みに耐え切れず、橋の中央部より東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、群衆は逃げ場を失い、後ろから次々と押し寄せる群衆によって雪崩をうつように転落、死傷者、行方不明者を合わせ1400人を超える大惨事となり、これは史上最悪の落橋事故と言われている。
大田南畝が「永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」という狂歌や「夢の憂橋」に著している。
落橋事故後は、交通の要衝としての橋の維持に幕府も理解を示し、再び架橋されている。
現在の橋は堅固な物となり、今では深川八幡祭りの神輿と人とで華やぐ橋として有名だ。
日本初の鉄橋
維新を迎えるころには老朽化していた橋は、代替となる橋を下流に新たに作る計画が立案された。
1897年(明治30年)道路橋としては日本初の鉄橋として鋼鉄製のトラス橋が、現在の場所に架橋され、頑丈な構造から1904年(明治37年)には東京市街鉄道(後の都電)による路面電車も敷設された。
当時の隅田川には5つの鉄橋が架橋されていたが、その多くが橋底の基部や橋板に木材を使用していたため、大正12年の関東大震災では避難する市民が橋とともに焼け落ち、焼死者や溺死者を多数出してしまう。
震災復興事業として、1926年(大正15年)に隅田川の9つの橋の再架橋が決まり、永代橋も現在の橋梁が再架橋された。
「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対し「帝都東京の門」と言われた永代橋は、ドイツのライン川に架かるルーデンドルフ鉄道橋をモデルにしたと言われ、現存最古のタイドアーチ橋は日本で最初に径間長100 mを超えた橋でもあり、2007年(平成19年)6月には都道府県の道路橋として初めて、同じ隅田川に架かる勝鬨橋・清洲橋と共に国の重要文化財に指定された。
東西に違う顔を持つ町があり、人と車で何時も賑わっている永代橋。
毎年8月15日を中心に富岡八幡宮の深川八幡祭りが開催される。
3年に一度の本祭りでは、重さ2tの黄金色の二の宮神輿と永代橋のコラボレーション。
この季節しか見れない風景に触れてみてはいかがだろうか。