現在の橋の建造に使われる主材料と言えば鋼ですが、国産の鉄を主材料とした鉄橋として、日本最古の橋と言われ、今でも人道陸橋として現役で活躍している「八幡橋(はちまんばし)」は、東京下町の江東区富岡にある八幡堀遊歩道に架かっている。
140歳を超える国の宝
八幡橋の元となるのは、1878年(明治11年)現在の中央区宝町の楓川にアメリカ人技師スクワイヤー・ウイップル氏が発明した形式を元に製作、架橋された「弾正橋(Vol.29で紹介)」である。
当時の橋付近に有った「島田弾正屋敷」に因んで名付けられた橋は、馬場先門から本所や深川を結ぶ主要路であった事から、文明開化のシンボル的存在の鉄橋となった。
しかし、1912年(大正2年)の市区改正事業によって、北側に新しく弾正橋が架橋されると「元弾正橋」と改称された。
さらに、1923年(大正12年)の関東大震災後の震災復興計画によって廃橋が決まるが、その歴史を惜しんで1929年(昭和4年)に現在の場所に移設され、橋の西側に隣接する「富岡八幡宮」に因み「八幡橋」と称されるようになった。
移設当時は、橋下は八幡堀という河川が流れていたが、後に埋め立てられて現在のような人道陸橋となっている。
1977年(昭和52年)に国の重要文化財として指定され、1989年(平成元年)にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受賞する等、その歴史的貴重性は増している。
アーチ部を鋳鉄製、引張部は錬鉄製という鋳錬混合の独特な構造手法で施工されている事など、橋梁の黎明期の技術を伝える貴重な文化遺産として、これからも歴史を刻んでいくだろう。
旧新田橋
八幡堀遊歩道には、もう一つの歴史的な橋が保存されている。
大正時代、岐阜県から上京して木場に医院を開業した新田清三郎医師が、1932年(昭和7年)に不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、現在の大横川(旧大島川)に、近所の多くの人たちと協力して架けられた「新田橋(にったばし)」である。
江東区木場5丁目と木場6丁目を結び、町の人々の暮らしを支え続けてきた小さな人道橋は、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れといった、様々な人生模様を静かに見守り続けてきた。
当初「新船橋」と呼ばれていたが、木場の赤ひげ先生と称され、町の相談役としても人望が厚く、亡くなった後も地域の人々から愛された新田清三郎医師に因んで、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになったと言う。
橋の最寄駅の門前仲町は、江戸時代は永代寺門前仲町と呼ばれ、町屋が形成されはじめると、大正末期ごろまでは深川富岡門前町と呼ばれていた。
永代通りの北側には、深川不動尊、富岡八幡宮の参道があり、ここがかつては羽織芸者や辰巳芸者でならした花街であったと言う。
毎年8月に開催される江戸三大祭りの一つの「深川八幡祭り」は、2021年の本祭りは中止となりましたが、他にも美味しいや楽しいは町に沢山あります。
是非この機会に、東京下町の歴史に触れる橋散歩に出かけてみてはいかがでしょうか。