箱崎のバスターミナルから茅場町方面に向かって5分ほど歩くと日本橋川に架かる湊橋にたどり着く、橋の上から東側に目を向けるとそこには梯子を横にしたような独特のデザインの橋が見える。
日本橋川が隅田川に流入する河口部に位置し、日本橋川の第一橋梁として架かるのが「豊海橋(とよみばし)」である。
北岸の箱崎町には日本アイ・ビー・エムのビルが建ち、南岸の新川には隅田川の対岸深川を結ぶ永代橋が架かる。
架橋と歴史を知る
1698年(元禄11年)江戸時代中期にこの場所に初めて橋が架けられると、北詰には船手番所が置かれ、諸国廻船が往来する江戸の水運の要所として、河岸には土蔵が建ち並び、陸揚げされた荷駄が行き交う活気に満ちた界隈となっていった。
1702年(元禄15年)12月14日、赤穂浪士47人が、本所の吉良邸への討ち入りを果たした後、永代橋で大川(墨田川)を渡り、この豊海橋を経て泉岳寺をめざした事でも知られている。
その後、幾度となく落橋・焼失、再架を経て、1903年(明治36年)にプラットトラス橋が架けられ、初めて鉄橋となった。
1923年(大正12年)の関東大震災でまた落橋するも、震災復興事業により1927年(昭和2年)復興局がフィーレンディール橋を架橋して現在の姿となった。
この梯子を横にしたような独特な構造を採用したのは、近くの永代橋との景観上のバランスを保つためとされ、重量感のある鉄骨橋梁の代表例としても貴重で中央区民有形文化財に指定されている。
日が暮れると淡いオレンジ色にライトアップされ、隠れた夜景スポットでもあり、たびたびドラマの撮影にも使われている。
文豪にも愛されて
江戸時代の船手番所は、明治時代に入ってからは日本銀行発祥の地となった場所でもあり、現在では、そのむねが記された石碑が建てられている。
また、墨田川上流に向かっての護岸は「墨田川テラス(遊歩道)」として整備され、ぶらりと「大川端散策」をするのにも向いている。
そんな橋は、多くの文豪にも愛されたいた。
若き日の川端康成は、「復興の東京市に、もし誇るべきものがありとすれば、一番にこれらの橋である。これらの橋こそは、新しい都市美の花であり、近代感覚の虹である。」と述べている。
永井荷風作「断腸亭日常」の中では「豊海橋鉄骨の間より斜に永代橋と佐賀町辺の燈火を見渡す景色、今宵は明月の光を得て白昼に見るよりも稍画趣あり。」と豊海橋より永代橋側を見る景色の一節が記されている。
平岩弓枝作の人気連作時代小説「御宿かわせみ」では、その中心舞台となる旅籠「かわせみ」のある場所が豊海橋の袂から少しはずれと記されている。
わけあって武家を捨て、江戸の大川端にある小さな旅籠「かわせみ」を営む「るい」と、その恋人で与力の息子「東吾」が仲間たちとともに数々の事件を解決していく人情捕物帳は、ドラマ、舞台化もされた人気作である。
江戸の歴史を知り、文豪も愛した橋。そんな橋の周辺を散策するとタイムスリップした感覚になるかもしれない。
自分のお気に入りの本を片手に大川端の散策をしてみてはいかがだろうか。