東京から千葉へ向かう国道14号線の隅田川にかかる橋が「両国橋(りょうごくばし)」である。
橋のすぐ近くには神田川との合流点があり、西岸の中央区東日本橋二丁目と東岸の墨田区両国一丁目を結ぶ。
江戸の大火災
「明暦の大火」「明和の大火」「文化の大火」を江戸三大大火と呼ぶが、中でも1657年(明暦3年)に起こった「明暦の大火」における被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大であったと言われ、江戸三大大火の筆頭として挙げられる。
外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷から市街地の大半を焼失し、死者数については諸説あるが3万から10万と記録されている。
この大火で焼失した江戸城天守は再建されることがなかった。
江戸幕府は、防衛面から隅田川に千住大橋以外の架橋を認めて来なかったが、「明暦の大火」の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、多くの死傷者を出してしまった事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、幕府は防火・防災目的のために架橋を判断することとなった。
架橋年は1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)の2説が伝えられている。
隅田川で千住大橋に続いて2番目に架橋された両国橋は、長さ94間(約200m)、幅4間(8m)あり、架橋当初は「大橋」と名付けられていた。
その後、西岸の武蔵国と東岸の下総国の2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が下流に架橋されると正式名称とされている。
街の発展
架橋後は市街地が拡大された本所、深川方面の発展と幹線道路としても大きく寄与する事となり、西岸に設けられた両国広小路の広場は、火除地としての役割も担っていた。
両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、1875年(明治8年)の架け替えが木橋の最後となる。
西洋風の長さ96間(約210m)の木橋であったが、1897年(明治30年)8月の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまい、死傷者を出してしまう。
明治に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定すると、1904年(明治37年)20mほど現在の位置より下流に、曲弦トラス3連桁橋で、長さ164.5m、幅24.5mの鉄橋として生まれ変わった。
この鉄橋は、関東大震災でも大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられている。
この架け替え時に取り外された両国橋の橋名板が東京都復興記念館に保存され、2008年(平成20年)には、言問橋と共に東京都選定歴史的建造物に選ばれている。
西に日本橋、東の本所、深川と、橋の歴史に触れながら、街を散策しに出かけてみてはいかがだろうか。