TOKYO BRIDGE WALK

TOKYO BRIDGE WALK Vol.9「品川橋」

東海道五十三次の一宿として知られる品川宿。 

宿場町の南北の境を流れる目黒川に架けられた「品川橋(しながわばし)」は、江戸時代には「境橋」と呼ばれ、上り下りの多くの旅人と海が近く漁業も盛んで、何時も賑わっていた。 

また別名「行合橋」「中の橋」とも呼ばれていた記録も残る。 

時代の移り変わりとともに、木橋は、石橋となり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、その姿を川面に映し、今でも周辺には神社仏閣が多く残り、架橋当時の面影がしのばれる。 

 

 

東海道の初宿 

品川宿は、1601年(慶長6年)中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、東海道五十三次の第一宿として、州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれていた。 

現在の京急北品川駅から青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていた宿場町は、目黒川を境に、南側を南宿、北側が北宿で、そのさらに北の宿を歩新宿(かちしんしゅく)と呼ばれていたと言う。 

歩新宿は、北宿と高輪の間に存在していた茶屋町が、1722年(享保7年)に宿場町として認められ、本来宿場が負担すべき伝馬と歩人足のうち、歩人足だけを負担した事で「歩人足だけの新しい宿場」という意味で名付けられたようだ。 

西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口となった品川宿は、他の江戸四宿と比べて旅籠屋数や参勤交代での大名通過数も多く、五街道の中でも、重要視された宿場町であった。 

 

 

その賑わった当時の風景は、歌川広重の浮世絵にも残されている。 

 

南北の天王祭 

品川橋近くには、スサノオノミコトを祭神とする二つの天王社がある。 

南にある荏原神社は「南の天王」と呼ばれ、東海七福神の一社として恵比須を祀る。 

北にあるのが「北の天王」と呼ばれる品川神社で、同じく東海七福神の一社として大黒天を祀っている。 

東海七福神の寿老人を祀る一心寺、布袋尊を祀る養願寺、毘沙門天を祀る品川寺も橋周辺に位置し、残る福禄寿を祀る天祖諏訪神社は南大井に、弁財天を祀る磐井神社は大森北にある。 

 

 

6月に開催される荏原神社の山王祭と品川神社の例大祭は「天王祭」と言われ、直線距離でわずか400mほどしか離れていない両神社は、荏原神社の山王祭を「南の天王祭」、品川神社の例大祭を「北の天王祭」と呼んでライバル心むき出しで張り合う姿は見る者を圧倒する。 

品川橋はこんな賑わいから生まれる南北の交流と未来への発展を深める「かけ橋」となるのだろう。 

現在も江戸時代と同じ道幅のまま残る旧東海道の品川宿周辺は、下町情緒と、沢山の神社仏閣や古い建物が残る見所豊富な町。 

この機会に、地図を片手に散策してみてはいかがだろうか。