TOKYO BRIDGE WALK

TOKYO BRIDGE WALK Vol.38「鎧橋」

東京、日本橋の下流、約400メートルほどの所、中央区日本橋兜町の東京証券取引所の近くに架かる橋が「鎧橋(よろいばし)」です。

江戸時代この辺りの日本橋川には約1キロにわたって橋がなく、江戸の中心部に至る水路の河口だったことから古くから水運の要所とされ、「鎧の渡し」と呼ばれる渡し船が往来していました。

川の西岸、茅場町の船着き場付近から、対岸下流の小網町に並ぶ白壁の土蔵群を歌川広重が描いた「名所江戸百景」の「鎧の渡し小網町」でも知られています。

大きな土蔵が連なり、川にはたくさんの荷船が浮かび、満員の渡し船の他、現在のタクシーのように人を運んでいた「猪牙舟(ちょきぶね)描かれ、人の往来が盛んだった事が分かります。

 

 

橋の歴史は、明治5年、三井小野島田の3人の豪商達によって、初代の橋が架橋されると、明治11年には東京証券取引所の前身である東京株式取引所が開設され、周辺には江戸時代から米問屋や酒問屋が多く、商業の町として発展しました。

明治21年にトラス橋に架け替えられると、路面電車が走るようになり、大正4年に拡幅工事が行われましたが、昭和21年には老朽化により橋の都電の通行が終了し、昭和32年7月には、現在のゲルバー桁橋に架け替えられました。

 

 

東京証券取引所

明治9年、明治政府は、華族や士族に対して家禄や賞典禄を支給していましたが、国家財政支出の3分の1から4分の1を占めるほど高かったため支給を廃止し、代わりに金禄公債証書を発行しました

この動きを見た両替商が現在の人形町付近に多く集まると、公債の取引が活発に行われるようになって行きました

株式取引所が日本に必要と考えていた渋沢栄一のもとに、公債売買の最有力者であった今村清之助らが集ま東京株式取引所設立明治116月から取引が開始され、最初の上場物件は公債でしたが、年末に第一国立銀行をはじめ株式会社4社が上場を果たしています

その後、多くの取引が行われてきましたが、昭和62年10月、ニューヨーク株式市場に端を発するブラックマンデーにより、日本株価が大暴落します。

しかし、翌、昭和63年1月に、当時の大蔵省が特定金銭信託やファンドトラストの決算処理の弾力化方針を打ち出したことなどを背景に株価は急激に上昇し、バブル相場が形成され、同年5月に、現在の東京証券取引所本館が施工されました。

 

 

ぺんてる

橋の東岸、日本橋小網町に本社を構える「ぺんてる株式会社」は、大日本文具株式会社として昭和21年に創業し、昭和26年、画家のアドバイスから定着性の良い「くれよん」と、古くから多くの画家たちに愛用されてきた固形描画材「パステル」の利点を組み合わせた「ぺんてる」を開発し、昭和30年に、現在でも広く使われている「ぺんてるくれよん」を発売しました。

昭和36年、世界初の0.9mmのハイポリマー芯とノック式シャープペンシル「ぺんてる鉛筆」が発売され、昭和38年には、米国ジョンソン大統領が使用したのをきっかけに世界的ヒット商品となった「ぺんてるサインペン」を発売しています。

当初「ぺんてる」は商品名でしたが、会社も徐々に「ぺんてるさん」と呼ばれるようになっていったことから、昭和46年に「ぺんてる株式会社」へと社名を変更されたようです。

ぺんてるでは、画材の製品化に甘んじることなく、人々が表現するよろこびをはぐくむために、より豊かに、よりワクワクし、そして誰もが手に取って使いたくなる、革新的な筆記具の開発に邁進されています。

 

 

日本橋日枝神社

日本橋茅場町のビル谷間に参道がある日本橋日枝神社は「摂社」「御旅所」と呼ばれ江戸時代より氏子崇敬者に親しまれています

戦前、旧官国幣社において設けられた摂社と末社を区分する基準では、本社御祭神と関係のある神や現社地の地主神など特別な由緒がある社を摂社と呼んでいました

摂社・末社の呼称は、戦前の基準による区分をそのまま用いていることがあり、特に本社との由緒の深い神社には、現在でも摂社の呼称が用いられています。

境内には、関東大震災復興と運気上昇を願い、江戸三大名工と謳われた酒井八右衛門デザインによる、とても珍しい天を仰ぐ上向きの狛犬が、昭和9年に奉献され、今では多くの参拝者が狛犬に手を触れ運気を願っています

 

 

日頃、何気なく渡る橋にも、毎日通る道にも、その街の歴史や風情を見る事が出来ます。

是非この機会に、いつもの街を少し視点を変えて散策してみてはいかがでしょうか。