TOKYO BRIDGE WALK

TOKYO BRIDGE WALK Vol.26「天現寺橋」

東京メトロ広尾駅1番出口を出て外苑西通りを南へ300メートルほど歩くと天現寺橋交差点が見えてきます。

 

 

昔は、笄川に架かる橋を「天現寺橋(てんげんじばし)」と呼んでいましたが、今では、笄川の暗渠化によってかつての橋は天現寺橋交差点の一部となってしまい、交差点の南側直ぐの渋谷川、古川に架かる橋を天現寺橋と呼ぶようになりました

橋の上流の渋谷川と、笄川の合流点より下流の古川は、昔は葛飾北斎・安藤広重も描く清らかな流れ明媚な自然を呈する川であったようですが、高度成長とともに汚染が進み清流は姿を消しました。

 

 

昔の姿を取り戻そうと、落合下水処理場の高度処理水を流すことで少しづつ清流を復活させ「渋谷川、古川、清流の復活」の石碑が橋のたもとに建てられました。

 

多聞山天現寺

天現寺橋交差点の北東に橋名の由来ともいえる多聞山天現寺。

 

 

1719年(享保4年)、小日向御簞笥町にあった臨済宗大徳寺末の普明寺が引き継がれ、現在地に移築して新たな法幡を竪起することとなり、多聞山天現寺と改められたそうです。

多聞山の山号が示すように、本尊として毘沙門天の像が祀られていて、毘沙門天は四天王の一人で降魔の相を現じて仏の世界と生きとし生ける者を守護し、七福神の中にも入り民俗信仰の対象ともなっています。

 

狸橋と北里大学

天現寺橋の一つ下流に架かる「狸橋(たぬきばし)」。

 

 

橋のたもとには由来碑が建ちこう記されています。「むかし、橋の南西に蕎麦屋があって子どもを背負い手拭をかぶったおかみさんに蕎麦を売ると、そのお金が翌朝は木の葉になったといいます。麻布七ふしぎの一つで、狸蕎麦と呼んだのが、地名から橋の名になりました。ほかに、江戸城中で討たれた狸の塚があったからとも言われています。」

蕎麦屋は明治になるまで存在していて、福澤諭吉がしばしば通っていた事でも知られています。

1879年(明治12年)、狸橋南岸一帯の土地を買収した福澤諭吉は、門下生、和田義郎が開いた慶應義塾幼稚舎をこの地に移転し、現在に至っています。

 

 

1892年(明治25年)には、ドイツより帰国した北里柴三郎に狸橋南岸東方の土地を提供し、日本最初の結核専門病院「土筆ケ岡養生園」が開設され、今日の北里研究所、北里大学となっています。

 

広尾弁天閣

橋の北西にある広尾公園の横を北へ歩いて行くと路地裏に小さな社が見えてくる。

渋谷区広尾という都会のど真ん中にぽつんと存在する真っ白な鳥居がある小さな神社「広尾弁天閣」は、街によく馴染んでいます。

 

 

弁天様と言えば、海や池、川といった「水場」が近くにあるイメージですが、ここには目につく水場が見当たりません。

そこで古地図を見てみると、外苑西通りの下に暗渠化となった笄川が近くにあることに気が付きます。

広尾駅前の商店街の路地に入ってすぐにある小さな弁天様は、路地裏ながらもきちんとした設えになっていて、社殿の足元には弁天様だからなのか、おかめさんなどの像が置かれています。

 

 

日頃、何気なく渡る橋にも、毎日通る道にも歴史ある風情が残っています。

是非この機会に、いつもの街を少し視点を変えて散策してみてはいかがでしょうか。