東京で有名な橋と言えば!日本橋、勝鬨橋、レインボーブリッジなど、いくつかの名前が挙がる中に今回紹介する「二重橋(にじゅうばし)」もある。
修学旅行や東京観光の定番でもあり、近年では、大勢の外国人観光客も訪れるようになった二重橋だが、間違って認識している人が意外と多いことに驚かされる。
「手前の橋と奥の橋、2つある橋が二重に見えるから」
「手前の石造りの眼鏡橋が堀の水面に映って二重に見えるから」
「手前の眼鏡橋が横に二重に見えるから」などと認識はさまざまで、皇居正門前にある石造りの眼鏡橋を二重橋と間違って認識している人も多いようだ。
実は、皇居正門前にある2つの橋のうち、手前の石橋は二重橋ではなく、広場からみて奥にある鉄橋こそが二重橋なのだ。
ではなぜこの鉄橋を二重橋と呼ぶようになったのだろうか。
現在の二重橋は、かつての江戸城は西丸に位置し、そこには、青銅製の擬宝珠が欄干に取付られていた木造の下乗橋が架けられていた。
下乗橋は、江戸城の堀が深かったことから下に丸太で土台を組、その上に橋を架けるという上下二段構造で造られた姿が、二重に橋が架かったように見えたことで「二重橋」と呼ばれるようになった。
1888年(明治21年)に鉄橋に架け替えられ、その後、1964年(昭和39年)6月に現在の姿に変わり、橋桁は二重ではないが、そのまま前の通称が残されたようだ。
正門手前の石橋は、かつての江戸城は西丸の大手橋が、1887年(明治20年)に架け替えられ、二重アーチ構造であることから俗称で眼鏡橋とも呼ばれ「この石橋が二重橋である」と誤認されることが多いようだ。
戦前の書籍にも二重橋に手前石橋の写真を用いるものも多く、当時は、一般に正門外石橋と正門内鉄橋の二つを併せて二重橋とする総称が用いられ「宮城正門の二橋、一は石を畳み、二は鐵をもって造る」と親しまれるようになっていった。
二重橋の正式名称は「正門鉄橋」。
手前の石橋は「正門石橋」と言う。
二重橋からの出土物が大論争に
1925年(大正14年)には二重橋を巡り大論争を巻き起こす出来事があった。
石垣の修復工事が行われた現場から多くの人の骨が発見された。
そこが、皇居のシンボルともいえる場所であったことと、当時の学者で南方熊楠らが「人柱説」を主張したことで大騒ぎとなったのだ。
当時の経緯をまとめた書物によると、南方熊楠らが主張した「人柱説」は当時有力とされたのが、宮内省(現在の宮内庁)は「江戸城の築城時に何らかの事情で埋められたのではないか」との見解を示したという。
現在では、人柱では無いとの説が有力と言われているが、それは、徳川家康が移ってきたころの江戸城はまだ小さく、現在の二重橋付近には寺があったという。
家康の命で移転したものの、墓地に埋葬した人骨はそのままだったため、それが出てきたという説が有力となっている。
江戸城周辺には当時は寺が多く、現在の都内地下から時々見つかる人骨は、同様の事情があるからだと言われている。
普段は正門が閉ざされて渡ることのできない二重橋だが、一般参賀の時は正門が開放され渡ることが出来るので、江戸の歴史を感じに、一度訪れてみてはいかがだろうか。