九段北一丁目と飯田橋二丁目の間から、西神田三丁目に通じる専大通りの日本橋川に架かる「堀留橋(ほりどめばし)」は、江戸時代初期の神田川開削の際に、日本橋川の神田川からの分流点より堀留橋までの区間が埋めたてられ、この付近が堀の終点となっていたことから「堀留」の名がついたと云われています。
明治になって堀留橋から神田川に至る区間が再び掘削され、結ばれた日本橋川と神田川を舟が行き交うようになり、橋は別名「こおろぎ橋」とも呼ばれるようになりました。
現在の橋は、1926年(大正15年)5月に架橋された簡素ですが、力強いデザインのコンクリートアーチ橋で、2007年(平成19年)に、千代田区景観まちづくり重要物件に指定されています。
石造風の親柱、高欄等が特徴的で、橋上からの眺望は、首都高速道路の高架が見えることで圧迫感を受けますが、橋詰の小公園など周辺からは、橋梁の全景を見ることができます。
東京理科大学
東京理科大学の前身である「東京物理学講習所」は、1881年(明治14年)に、堀留橋の西詰の地、麹町区飯田町四丁目一番地に設立された小学校の校舎を夜間だけ借りて講義が行われた事が始まりと云われ、現在のその場所には、赤御影石で出来た高さ2mほどの発祥碑が建っています。
その後、1883年(明治16年)に、東京物理学校と改称され、1889年(明治22年)には、神田小川町に校舎を取得し、当時の神田には多くの学校が創設されたましたが、理科系の学校は希少とされました。
維新後の新生日本の科学的発展をになう若者を育てなければという使命感に燃えた
東京帝国大学理学部の卒業生たちが「理学の普及」を目指し、維新後の新生日本の科学的発展をになう若者を育てなければという使命感に燃えて、共同で学校を立ち上げたと云われています。
三代目校長の中村恭平は夏目漱石と親交が深く、「わが輩は猫である」の登場人物のモデルとも云われ、また「坊っちゃん」の主人公もこの東京物理学校の卒業生であるのもその関係と思われます。
1904年(明治39年)に、現在の新宿区神楽坂に校舎を新築して移転し、1949年(昭和24年)に、 新制大学「東京理科大学」となりました。
西神田公園
白山通りと専大通りの間にある「西神田公園」は、1930年(昭和5年)6月に開園した面積は2,000㎡ほどの歴史ある公園で、周りをビルで囲まれた都会のオアシス的な空間です。
2000年(平成12年)に、周りを囲む塀や歩道との段差をなくし、開放感のある公園に改装された公園入口には、レンガで造った円形の花壇とベンチがあり、浅い水が流れている木陰やコミュニティサイクルちよくるのポートがあります。
そして、高齢者がいつまでも元気に生活できるよう、介護予防事業の一環として8種類の高齢者向け介護予防遊具が、2004年(平成16年)に園内に設置されました。
平日の昼時には、付近で働く人達の休息の場となり、午後から夕暮れ時にかけては親子連れや子供達の笑い声に癒されます。
神田三崎町
江戸幕府以前は、この界隈は三崎村と呼ばれていて、その呼び名は、当時の村周辺が日比谷入江という遠浅の海で、その入江に突き出した「みさき(岬)」の端の土地だったことに由来すると伝えられています。
その後、徳川家康をはじめとする歴代の将軍が城下町としての開発に力を入れ、遠浅の海は埋め立てられ、大名や旗本の武家屋敷が立ち並ぶ町へと変わり、江戸時代を通じて小川町と呼ばれるようになり、1859年(安政6年)頃には、伊予今治藩松平家の屋敷とその周辺に幕府の講武所が設けられ、武芸の訓練が行われていました。
1872年(明治5年)に、東京の多くの町が新町名へと変わっていく中で、この界隈も三崎町と改称され、1890年(明治23年)に、旧講武所の陸軍練兵場跡地は丸の内と共に三菱社に払い下げられ、丸の内はオフィス街へ、三崎町は市街地としての開発が始まりました。
町には、劇場の三崎座、川上座、東京座(三崎三座)が開かれ、神田パノラマ館のオープンに、現日本大学の日本法律学校も移転してきました。
昭和に入り、神田区と麹町区が合併して千代田区となる時に、旧神田区の町がいっせいに神田を冠称したことで、三崎町も「神田三崎町」となりますが、その後、住居表示により神田三崎町の名前が消える話がもちあがります。
これは大変と、地域住民が立ち上がると町をあげての運動が展開され、その名前を残すことに成功し、こうして三崎町という町名が現在に引き継がれてきたのです。
日頃、何気なく渡る橋にも、毎日通る道にも、そこで生活する人々と刻まれた歴史ある風情が残っています。
是非この機会に、いつもの街を少し視点を変えて散策してみてはいかがでしょうか。