賑わいが戻ってきた浅草で、ぶらり散歩を楽しんだ後には隅田川を巡る東京クルーズで川下り、「吾妻橋」「駒形橋」をくぐると隅田川で唯一の3連アーチ橋とされる「厩橋(うまやばし)」が見えてくる。
橋名の由来は、西岸にあった「御厩河岸(おんまやがし)」にちなむとされ、橋全体には馬を連想させるレリーフなどが施されているので、そのレリーフを探しながら歩いて橋を渡るのも楽しいでしょう。
日暮れが早い冬の時期には、ディナーの前にライトアップされた印象的なシルエットを楽しむ人も多いようです。
御厩の渡し
1620年(元和6年)浅草川右岸(現在の吾妻橋と両国橋の間の隅田川西岸部)に、江戸幕府の米を貯蔵する最大の米蔵「浅草御蔵」が約3万9000坪もの広大な敷地に創建されると、上流域で荷駄用の馬を飼うための厩が作られた事から、その周辺を「御厩河岸」と呼ぶようになったようです。
御厩河岸は浅草寺界隈への入口にあたり、対岸の本所を結ぶ「御厩の渡し」が1690年(元禄3年)に定められると、船で多くの人々が訪れたとされ、歌川広重の描いた錦絵「浅草川首尾の松御厩河岸」にも、御厩の渡しを多くの船が行き交う姿が描かれています。
1872年(明治5年)に花見客で賑わう中で渡し舟の転覆事故が起きると、以前より転覆事故が多く「三途の渡し」と揶揄されていたこともあり、1874年(明治7年)に民間の手によって厩橋の架橋に伴い渡しは廃止となったようです。
鉄橋と春日通り
1874年(明治7年)に架橋された厩橋は、現在の位置よりも約100mほど下流で、長さ約150m、幅約6mの木橋であったと伝えています。
東京府より、老朽化が進んできた木橋をプラットトラス形式の鉄橋に架け替える計画が上がると、当時の厩橋近辺は、湿地帯で沼地が多く広い道がなかったため、鉄橋の建設に伴って、本所方面から上野広小路へと東西を直接接続しようと1890年(明治23年)には、現在の春日通りの建設計画が持ち上がっています。
1893年(明治26年)に鉄橋への架け替えは完了するも、春日通りは、周辺の土地買収が難航したことから、架橋から2年遅れの1895年(明治28年)になって開通したようです。
後の関東大震災で厩橋は被災するも、その復興計画によって架橋されて現在の姿となったようです。
江戸時代の御厩河岸周辺には、昭和に大ブームを起こした「野球盤」で知られる玩具メーカーが鎮座し、対岸には体をケアする商品に衣類をケアする商品で有名な百獣の王がそびえ建ち、上流に目を向けると金色のビールの泡のオブジェが覗いて見える。
そんな厩橋へは、都営大江戸線の蔵前駅A7出口を出て直ぐと、橋散歩をするにはアクセスも良好なので、色々と忙しくなる季節だからこそ、古き良き時代を感じながら気分転換に週末はぶらり散策を楽しんでみてはいかがでしょうか。