何かと話題の豊洲市場や東京オリンピックに向けて様々な会場の建設が進む有明地区と東京屈指の繁華街銀座を結ぶ晴海通り。
その墨田川に架かる橋こそが「勝鬨橋(かちどきばし)」だ。
勝鬨橋は、跳開橋として日本に現存する数少ない橋の一つであるが、1980年(昭和55年)に機械部への送電が取り止めとなり可動部もロックされたので、残念ながら今は跳開することはなくなった。
近年、再び跳開した姿を見たいとの市民の声や一部都議の動きはあるものの、現状の交通量や機械部等の復旧には費用も莫大にかかることもあり、実現の目途は立っていない。
架橋の歴史
1905年(明治38年)1月、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として、築地と対岸の月島の間を結ぶ渡し舟「勝鬨の渡し」が有志により設置された。
その後、月島には石川島造船所などの多くの工業施設が完成し、交通需要が高まり、1929年(昭和4年)「東京港修築計画」に伴う4度目の計画で勝鬨橋の架橋が決定した。
当時は、隅田川を航行する船舶も多く、陸運よりも水運を優先させるべきと、3,000トン超級の船舶が航行することを想定し、高架橋案等もあったが、建設費が安く済む事などから、可動橋として設計されたのだ。
1933年(昭和8年)に工事が始まり、1940年(昭和15年)に「皇紀2600年」を記念して開催を予定されていた「日本万国博覧会」へのアクセス路計画の一環でもあり、格式ある形式、かつ日本の技術力を誇示できるような橋が求められたため、海外の技術者は導入せずに、全て日本人の手で設計施工が行われた。
しかし、日中戦争の激化により「日本万国博覧会」は軍部の反対により中止となるが、勝鬨橋は1940年(昭和15年)6月に無事完成し、当時の可動橋としては「東洋一」と呼ばれるほどの評判を得ている。
高度経済成長と共に道路交通量の増加に伴い、船舶通航量は減少して行くことで跳開する回数は減り、架橋当時の1日5回ほどあった開閉回数も上流に佃大橋が架橋された1964年(昭和39年)以降は年100回を下回るようになった。
1967年(昭和42年)に船舶航行による最後の跳開が行われ、その後は年に1回の試験跳開がされていたが、交通量の著しい増加などの理由から1970年(昭和45年)11月29日を最後に開閉は停止となった。
一時は、勝鬨橋の架け替えプランが検討されたことがあったが、多くの反対意見や活動もあり、架け替えプランは見送られ、2007年(平成19年)6月には都道府県の道路橋として初めて、清洲橋・永代橋と共に勝鬨橋が国の重要文化財(建造物)に指定されている。
2017年(平成29年)には跳開部の機械設備が、日本機械学会から機械遺産としても認定された。
1998年(平成10年)から始められた夜間のライトアップは、川面に反射する光の演出で、輝く勝鬨橋の素敵な情景を作り出してくれている。
勝鬨橋両岸には、墨田川に沿って遊歩道もあり、周辺をゆっくり散策しながら楽しめるので、是非一度、足を運んでみてはいかがだろうか。