東京駅八重洲口から八重洲通りを東へ1㎞ほど進んだ所に架かる「亀島橋(かめじまばし)」は、八丁堀と新川を繋ぐ東京駅から大川端リバーシティ方面を結ぶ重要な橋の一つです。
架橋は、元禄12年(1699年)の町触に橋普請の記載があることから、このころと考えられていまする。
大正12年(1923年)関東大震災で被害を受けると、内務省復興局により昭和4年(1929年)に鋼上路アーチ橋として復興されすが、戦時中の物資不足を補うため高欄等が供出されます。
現在の橋は、平成14年(2002年)に架け替えられたもので、架け替えに当たり当時のデザインが生かされ、地域のシンボルとして21世紀に誇れる橋となりました。
「亀島」の名前の由来は、昔、瓶を売る者が多くいたからとの説と、かつて亀に似た小島があったからとの説がありまする。
霊岸島
現在の中央区新川付近は、はじめ江戸の中島と呼ばれていましたが、寛永1年(1624年)に霊巌雄誉が霊巌寺を建立したころから「霊岸島」と名付けられました。
明暦の大火後に寺が深川に移転し町屋が増えると、後に河村瑞賢が日本橋川に並行して中央に運河「新川」を掘削すると、永代橋まで畿内からの廻船が入りこむため江戸の港として栄えました。
昭和23年(1948年)ころまでには、新川や越前堀などの水路は埋め立てられますが、長崎の出島のように江戸時代とさほど変わらぬ地形が現代に残っており、霊岸島(現、新川)は、もっと評価されても良いのですが、残念ながら古い街並みなどが残っていないので注目はされません。
しかし、江戸初期に幕府の水軍や幕府御用船を管理する御船手組屋敷が設置され、明治・大正・昭和初期にわたり港町の伝統を引継ぎ、重機など無かった時代の造成は、江戸時代のなごりをとどめる貴重な街と言えるでしょう。
堀部安兵衛武庸之碑
赤穂四十七士の首領大石内蔵助と並んで知名度の高い堀部安兵衛は、元禄7年(1694年)の高田馬場の仇討ちはでも知られ剣術の達人です。
亀島橋西詰に石碑は、堀部安兵衛がこの地に住んでいたことがあることを記念して、昭和44年(1969年)に八丁堀一丁目町会によって建立されています。
碑には「安兵衛が京橋水谷町の儒者細井次郎大夫家に居住」とある通り、正式には京橋水谷町は、現在の銀座一丁目付近となりますが、享保4年(1719年)火事により八丁堀に移転となり、水谷町の故地、京橋の水谷町に安兵衛が住んだことがあるということで、建立されてのでしょう。
橋の西詰南側には「八丁堀を詠む菊の花咲くや石屋の石の間 芭蕉(五十歳)元禄六年(一六九三)」と刻まれた松尾芭蕉の句碑(一部見づらくなっています)もあり、その横には「この地に移住し功績を伝えられる人物」として、東洲斎写楽と伊能忠敬の説明板もあります。
日頃、何気なく渡る橋にも、毎日通る道にも歴史ある風情が残っているでしょう。
是非この機会に、いつもの街を少し視点を変えて散策してみてはいかがでしょうか。