JR高田馬場駅から神田川を約1㎞程下った所に架かる橋。
ロマンチックな名を持つ「面影橋(おもかげばし)」は、都電荒川線の停留所名としても使われる神田川流域では有名な橋の一つである。
「山吹の里」
面影橋周辺にはいくつかの伝説が残されていて、その一つに「山吹の里伝説」がある。
室町時代後期、江戸城を築城した武将としても有名な太田道灌が、この付近に鷹狩に来た時に、急な雨に降られ近くの農家の娘に蓑を借りようとしたところ、その娘は庭に咲く山吹を一枝摘むとそれを道灌に捧げたという。
道灌は内心腹立たしいながらも意味が分からず帰宅し、家臣に事の次第を話したところ、家臣の一人から、それは後拾遺和歌集にある兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」という歌を借りて、茅葺の家は貧しくお貸しする蓑ひとつ持ち合わせが無い事を、奥ゆかしく答えたのだと教わった。
古歌を知らなかった事を恥じた道灌は、それ以後、歌道に励み歌人としても名高くなったと言われている。
面影の名は?
橋名の由来も多くの説が残されていて、戦国時代に京から都落ちして来た武士、和田靱負(わだゆきえ)の一人娘、於戸姫(おとひめ)の不幸な伝説がその一つである。
美しかった於戸姫には多くの求婚者が現れるが、靱負が求婚を断らせていた。
その中でも熱心な一人の武士が想いが募り強硬手段に出て、仲間数人と共に於戸姫をさらってしまう。しかし、気を失ってグッタリして一向に起きない於戸姫を見て、殺してしまったと勘違いした武士は、恐ろしくなって於戸姫を川岸に捨てて逃げてしまったのだ。
幸いにも、畑仕事で近くを通った杉山三郎左衛門に助けられた於戸姫は、夫婦に我が子のように育てられると、やがて近所の小川左衛門に嫁いだいった。
幸せを掴んだはずの於戸姫だったが、於戸姫に惚れてしまった夫の友人に夫を殺されてしまう。
仇討ちは成し遂げるものの、於戸姫の哀しみは癒えず呆然とする心の中、自分の身に起こる不幸は、すべて我が身から出た事と恥じ、自ら髪を切り家を出る。
いつしか足は、自分の育った神田川に向かい、川辺でわが身を水に写すと
「変わりぬる姿を見よとや行く水に、うつす鏡の影に恨めし、
限りあれば月も今宵はいでにけり、今日見し人の今は亡き世に。」
と詠み、自身の宿命に涙を流し、亡き夫を想いながら川に身を投げて夫の許に向かったとされる。
里人たちは於戸姫の心情を思いやり、姿見の橋と名名付けられ、そして今では面影橋とも呼ばれるようになった。
「高田姿見のはし俤の橋砂利場」
「名所江戸百景」の一つで、高田の姿見の橋から、俤の橋と砂利場を望む光景が描かれたもので、画面の奥に流れる小川と、そこに架かる「俤の橋」が見え「砂利場」は、その小川を渡った先の地名と言われている。
この画の構図から推測すると、姿見の橋が現在の面影橋となるが、「俤」は「面影」とは違う物であったのか、それとも何かの手違いで入替ってしまったのかは不明でる。
何れにしろ、広重が見た姿見の橋は、弓なりの立派な太鼓橋で、川の向こうにひろがる田園風景とその奥の丘陵の対比がなかなか美しかったことがしのばれる。
そして今では、奥に流れる小川は消え、「姿見」の呼びは「面影」に変わっている。
散策スポット
橋散歩はどこからスタートさせるかで町の見え方、その歴史の見え方が変わってくる。
季節によっても見所が変わるのではじめの一歩は大切である。
桜が見ごろの春には、都電荒川線に乗って面影橋に直接向かうも良し、ゆっくり散策したい時には、東京メトロ有楽町線江戸川橋駅から、神田川沿いに遊歩道が整備されているので、上流に向かって足を運ぶとホテル椿山荘裏を通り芭蕉庵や肥後細川庭園といった歴史を感じる癒やしスポットにたどり着く、もし歩き疲れたら早稲田停留所から都電荒川線に1停乗るも良し、今の街並みを楽しむなら、高田馬場駅からのんびり散策もお薦めしたい。
普段歩いていると平凡な景色でも、視点を変えて観るとノスタルジックな一面を持つ街に観えるのでは、シンプルで飾り気のなり橋がいくつもの歴史を教えてくれる。